寺を考える  

 我々は寺について何を知っているのでしょうか。ほとんどの人達が死者の霊を祭るところ、或は葬儀を行うところ、先祖の霊を祭るところ等の答えが返ってくる。
 この答えが寺の本質をとらえているかというと、それは否である。大多数の人達はこの程度の理解だけで寺に接しているのが実情である。

 「寺」とは何なのか。そもそも「神さま」や「仏さま」は本当にいるのか?
 これについて宗教社会学の研究家岩井洋氏(関西国際大学助教授)は次のように書いている。

 「神さま」については、「いる」と思う人には「いる」し、「いない」と思う人には「いない」というほかはない。
「仏さま」についても、仏教の開祖である、いわゆる「お釈迦さま」は実在の人物であるとされている。 しかし、信仰の対象としての「仏さま」 については、「神さま」と同様に、「いる」と思う人には「いる」し、「いない」と思う人には「いない」、ということになる。
 「仏教」というと、お寺があって仏像がある、というのがあたりまえだと思われているが、お釈迦さまが自分の教えを人々に伝えていたころは、仏像などなかった。なぜなら、初期の仏教では、自分が修行して悟りを開くことが目的であるから、拝む対象は必要なかったのである。しかし、お釈迦さまがなくなると、お釈迦さま自体を信仰の対象として拝む人々があらわれる。そこで、はじめて仏像というものが誕生した。といっても、現時点で見つかっている仏像は、紀元1世紀頃のもので、それ以前には、仏像というもの自体が存在しなかった。これは、実に、お釈迦さまがなくなってから約500年たったころである。このころになると、お釈迦さまは、いわば「神さま」のような存在として神格化されてきたのである。

 仏教はこのように、自分が修行して悟りを開くことが目的であったのが、今では大方の人々が考えるように、死者の霊を弔ったり、祭ったりする儀式の仏教になってしまっている。
 現在、仏教家の大部分は仏教の儀式を金儲けの道具にしてしまっているのが実情だ。それが葬式仏教と云われる所以であろう。
 本来は人間の心のやすらぎを与え、人としての尊厳を守ることを、教えていく宗教が、今では金儲けの道具とされていることは、今後の仏教の発展に水を差し、檀信徒の支持を失い衰退の道を歩み始めることになろう。
 わが檀家のお寺は果たしてどうだろうか。この機会に考えてみる必要がある。

                                         (考える檀家)