愚渓寺の沿革

応永17年(1410)妙心寺第三世日峰(にっぽう)宗舜(そうしゅん)は美濃春木(現在の御嵩町平芝)に「無著庵」なる草庵を結ぶ。
応永35年(1428)前後、日峰宗舜の弟子義天(ぎてん)玄承(げんしょう)は現在の愚渓寺の北西「鈴ヶ洞」に「愚渓庵」を結ぶ。
永享11年(1439)地元中村の大垣内衛門浄珍・藤木藤道・今井左近宗源の3名が愚渓庵裏山を寄進。
文安5年(1448)宝塚の寄進を、翌年放岡と高尾峰(今の御嵩富士のあたり)の寄進を受ける。
永正3年(1506)美濃国守護代・土岐美濃守政房により「愚渓寺」の称号を与えられる。
天保11年(1840)〜嘉永2年(1849)にかけて、「鈴ヶ洞」から現在地へ移転。
昭和28年(1953)11月宗教法人「愚渓寺」となる。
昭和61年(1986)5月現住職が代表役員に就任、現在に至る。
(出典 中山道みたけ館、栗谷本真著 平成17年3月27日開催ふれあい講座資料より)

*  義天玄承といえば龍安寺。龍安寺といえば石庭。
  その元となったのが愚渓寺の石庭。
  現在の愚渓寺にも優美な石庭がある。
  また位牌堂は室町時代の建設で見事な造作が施されている。